【ワークショップ(読書会)】
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対象詩:『灼熱のソネ』(1900 年)より「Outwards 往路」、『絵葉書』(1902 年)より「アルゼンチン共和国──ラ・プラタ」「日本──長崎」
報告・レジュメ抜粋
〈生い立ちと青春時代〉
アンリ・ジャン=マリー・エティエンヌ・ルヴェ(Henri Jean-Marie Étienne Levet)。1874 年 1 月 13 日、フランスのモンブリゾン(ロワール県)に生まれる。父は代議士で、裕福な家庭の一人息子であった。1889 年にリセ・コンドルセに入学し、1893 年から家族と共にパリに移住。病弱だったため、兵役は 1894 年に免除されている。1895 年より『ル・クーリエ・フランセ(Le Courrier français)』誌への寄稿を行う。モンマルトルでボヘミアン的な生活を送り、レオン=ポール・ファルグやフランシス・ジュルダンらと親交を深めた。この頃から「Henry J.-M. Levey」という英国風の筆名(ヘンリー・J.-M・リーヴィー)を用いる。奇抜な服装を好み、髪を緑や青色に染め、テニスラケットを小脇に抱えていたという証言も残されている。
〈インドシナへの旅と文筆活動〉
1897 年、インドシナへの派遣任務(「クメール芸術の美学とそのヒンドゥー的起源の研究」)をフランス公教育省に申請。サイゴン経由でコロンボ、カルカッタを巡る旅に出る。翌 98 年 6 月に帰国したが、報告書は知人(アンドレ・イベルス)に代筆させたものであったため、インドシナ研究者のエチエンヌ・エモニエの激怒を買う結果となった(しかしなぜかその後、アカデミー・オフィシエを受勲している)。
帰国後は文筆活動を続け、1900 年には『ラ・ヴォーグ(La Vogue)』誌に「灼熱のソネ(Sonnets torrides)」などの詩篇群を発表。1901 年には『ラ・プリュム(La Plume)』誌に寄稿し、1902 年には『ラ・グランド・フランス(La Grande France)』誌に「絵葉書(Cartes Postales)」を発表。また、この頃、シャルルヴィルのランボー記念碑建立委員会の書記を務め、クレマンソー、フェネオン、ジャム、メリル、モレアス、ロダンらと共に署名を行った。
〈外交官としてのキャリアと最期〉
1902 年 11 月、マニラ三等副領事に任命され、同月末にマルセイユからフィリピンへと向かう。だが 1903 年には病気のため一ヶ月休職し、1905 年春には健康上の理由によりフランスへ帰国。その後、同年 11 月よりカナリア諸島ラス・パルマスのフランス領事館の管理を任され、翌 1906 年 2 月には書記官室長となったが、気管支炎のため 9 月に再び病気休暇を取得。病状は回復せず、同年 12 月 14 日、マントンにて 32 歳の若さでその生涯を閉じた。
〈死後の評価〉
彼の両親は、彼の手稿や手紙をすべて焼却してしまったため、ルヴェがインド旅行をもとに執筆していた小説『ベナレス急行(L’Express de Bénarès)』も、未完のまま失われた。しかし、友人であったヴァレリー・ラルボーとレオン=ポール・ファルグが、彼の雑誌掲載の作品を集めたものを中心に『詩集(Poèmes)』として 1921 年に出版したことで、その名が後世に残ることとなった。初版では、ラルボーとファルグによる「対話(Conversation)」が序文として付されている。ラルボーは、ルヴェの詩風は、コスポモタリタン的特性を多く取り込みながら、ユーモアも兼ね備えた「ふざけたホイットマン風(whitmanisme à la blague)」と言うべき独自のスタイルを持っていたと指摘する。ちなみに、マルセル・プルーストは同年、ファルグ宛の手紙で本詩集に対する謝辞を述べているが、ルヴェの詩そのものについては言及していない。