フランス現代詩研究会 2019 年 8 月例会
- 日時:2019 年 8 月 28 日(日本時間 21:30-24:00/フランス時間 13:30-17:00)
- 場所:東京/パリ(オンライン)
【ワークショップ(読書会)】
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発表者:伊藤琢麻
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対象詩:
- 雑誌 Discontinuité に収録された Claude Sernet の « Dear Fellow » と « Digression sur du grès » を読みました。
経歴
1902 年:トゥルグ・オクナ(ルーマニア)にて、医者の息子としてエルネスト・スピルト〔後のクロード・セルネ〕生まれる。
1907 年:農村で大規模反乱が起こる。
1910 年頃(?) : 妹のコロンバ生まれる。エルネストはとても若くしてドイツ語、そしてフランス語のが学習を始める。
1913〜17 年:リセ Liceul Internat に入学。ヤシで最も重要な教育機関で、エルネストはそこでフランス語の知識を深めたり、文学の嗜好を深める。当時は中世の文学作品を好み歴史を題材とした演劇作品の上演に参加。その他、プレイヤード派、パルナシアン、象徴主義を好む。この頃、反ユダヤ主義の風潮がルーマニアでも高まる。
1920 年:イタリア語を学ぶ。一般数学のバカロレアを受験するも、歴史と文学に常に関心を持つ。
1924 年 : ミハイル・コスマの筆名でルーマニアの文芸誌「75HP」に参加。主なメンバーはイラリエ・ヴォロンカ、ヴィクトール・ブローネル等。コスマ〔=セルネ〕はフランス語で文学への軽蔑を表明。「文学は、世紀の最良のトイレットペーパーだ」 « Littérature, le meilleur papier hygiénique du siècle ».
1925 年:イタリアの街、パヴィの大学へ登録。法律を学ぶ。この時期、ブカレストからイラスト付きでユーモラスな手紙を送ってきたりとブローネルとの友情が感じられる。また、ミラノから近いこの町で、セルネは未来派のメンバーと直接交流し見識を深める(既にルーマニアではよく知られていたが)。ただし、1924 年周辺のイタリアは、ムッソリーニの権力が確固たるものとなったりと激動(セルネがかつてルーマニアで経験してきたもの)。
1926 年:ヴァカンス中、はじめてのフランス滞在。モンパルナスでヴォロンカ、バンジャマン・フォンダーヌと再会。
1927 年:再びパリに短期滞在。モンパルナスを拠点に多くの作家たちと知り合う。
1928 年 : 2 月 18 日、いわゆる「前衛的な」会合へ参加。アルチュール・アダモフ、ルネ・ドーマル等が他の参加者。
6 月、『ディスコンティニュイテ 1』の第一号を発刊。
当年、パヴィで口頭試問を終える。
1929 年 : Mises au point 発表。『ディスコンティニュイテ』の失敗を認める。ブーリーとその他の参加者たちは『ディスコンティニュイテ』に強固な哲学的な基礎が欠けていたと批判。
パリに居を構える。
1933 年 : Les Cahiers Jaunes のシネマ特集に参加。
1937 年 : Commémorations 発表。
1938 年 : Un jour et une nuit 発表。
1939 年 : 10 月、動員される。
1940 年 : 6 月、セダン Sedan で囚獄。
1941 年 : 5 月、脱走に成功。追手から逃れるために、ナルボンヌ Narbonne へ亡命。
1950、60 年代:平和活動、共産党に参加。数々の作品を発表。
1968 年:死去。
試訳
- 1.『ディスコンティニュイテ(非連続)』 Discontinuité はシュルレアリスムから影響を受け、その周縁に位置づけられる雑誌(『大いなる賭』 Le Grand Jeu 誌とこの点は類似していると言える)。クロード・セルネとアルチュール・アダモフによって考えられた。アダモフはカフカの世界のように、不条理で思索的な作品。セルネはアダモフより知的ではないが、鋭い感性を持っていたようだ。非連続という概念は一九世紀末より印象主義者(とりわけスーラ)に顕著に見られ、画家たちに大きな関心を寄せられていた。印象主義者たちは科学に対して光の謎の探求を解明へと導くことを要求していたからだ。だから、色を取り扱う技術的な作品が多く作られた。(自然科学の分野では)しかしながら、近代物理学の登場まで、非連続という概念は具体的に取り扱われることがなかった。その解明にあたっては、第一に、マックス・プランクの理論が重要。そして、ハイゼルベルクによるプランクの理論の修正、すなわち不確定性原理の登場を待つ必要がある(1927 年)。つまり、観察者の再認識行為が、客観的現実の認識に到達する事を可能にするということと関連するように思われる。文学としては、ロートレアモン、ランボーが非連続の時代を切り開いたと言えるかもしれない。連続的でなく、論理や文体と関係性を持たず、他の次元と関連しながら作られる散文。作家や詩人たちは、世界の連続がばらばらになることへ参加することになる。例えばプルースト。詩で言えばアポリネールの『アルコール』ないしサンドラール『トランスシベリアン』。バレエの上演でいうストラヴィンスキーの『春の祭典』、マラルメの『賽の一擲』、マリネッティの『自由詩』が挙げられる。『非連続』誌は大衆やシュルレアリストの注意を引くことになる。この雑誌は時間や物における新たな感覚の表現について焦点を絞った。具体的には写真や映画、速度、電子機器や視覚機器から生まれる新たな世界を表舞台に出すことになる(未来派や構成主義のようだ)。ディスコンティニュイテという言葉の最良の定義は、1933 年、フォンダーヌが『黄色いノート』 の中に書いたものが知られている。「私たちは非連続の世界で暮らしている。断絶を見させることを避けるために、哲学者が丁寧に散り散りになった破片を貼ろうとしても無駄である、歴史とは穴から、墓穴から作られるのだ…… そう、共同の墓穴から」(以上、Michel Gourdet, Claude Sernet, Paris, éditions OXUS, 2005. を参考に作成)。 ↩