フランス現代詩研究会 2018 年 9 月例会
- 日時:2018 年 9 月 25 日(日本時間 21-24 時/フランス時間 14-17 時)
- 場所:東京/パリ(オンライン)
【研究発表】 〈視覚詩〉をどう読むか?:フランス近現代詩から瀧口修造へ 『黄よ。 おまえはなぜ』と『《稲妻捕り》Elements :《稲妻捕り》とともに』の「余白」に流れる時間性
- 発表者:山腰亮介(国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程)
要旨
1897 年に発表されたステファヌ・マラルメの『賽の一振り』が、その後の視覚詩ジャンルに大きな影響を与えたことは、広く認められていることである。T・ロジェは、『賽の一振り』が後世の視覚詩ジャンルに影響を与えたとされる要素を 7 つに類型化 (見開き、組版の多様性、対位法的同時話法性、表意文字的同時話法性、空白化と分割化、テクスト - 音楽作品、叙事 - 叙情的または宇宙論的 - 哲学的方向) し、そこにクローデルやアポリネール、ビュトールといった詩人の作品を割り当てることで、その影響力の強さを示した。では、日本の『賽の一振り』受容においても、同様の影響は確認できるだろうか。本発表では、視覚詩の受容研究の一環として、日本の詩人・美術批評家である瀧口修造 (1903-1979) の詩画集を主な研究対象とする。具体的には、サム・フランシスとの詩画集『⻩よ。 おまえはなぜ』 (南画廊、1964 年) と最晩年に制作された加納光於との詩画集『《稲妻捕り》Elements :《稲妻捕り》とともに』(書肆山田、1978 年) を扱う。これらの作品における〈余白〉が与える時間的な効果に着目しながら分析を行うことで、フランス詩史との連続性を探っていく。
報告
テクストに流れる時間は、絵画に流れる時間と異なる。テクストの場合、それは決められた方向に一本の直線のごとく流れていくが、絵画の場合はもっとランダムに複数的な時間が流れていくからである。瀧口修造は、「余白」を操作しつつ、テクストや絵画における時間性に関する探究を行なっていたと言えるかもしれない。山腰氏の発表は、私たちにそう思わせるものであった。
瀧口の展覧会の序文等を集めた『余白に書く』を捲ることから私たちは出発するが、そこで「余白」は定義されていない。しかしながら、この書物の表紙であるサム・フランシスの絵画を媒介にすることで「余白」について思考できるようになると山腰氏は述べる。なぜならその表紙は、フランシスのアトリエの床からとってきたものであり、本来作品の周辺にあるもの=「余白」として機能しうるからである。この仮説に対し、ティエリ・ロジェによるステファヌ・マラルメ『賽の一振』を基軸とする視覚詩の七つの分類を参照しつつ、山腰氏は瀧口における「余白」を「制作の場」、「書斎」、「テクストの縁にあるもの」として位置づけ、テクストのレイアウトに関する問題を提起するものだと説明する。レイアウトの問題とはすなわち眼の運動の問題である。瀧口の「余白」に関する思索は、こうして、読書経験における直線的な眼の操作をいかにして複数的なものの見方へと開いていくのかという問いへと移行するのである。そしてこの次元において、時間性の問題が提起されるのである。
それではこの「余白」に端を発する時間性は、瀧口においてどのように探究されているのか。1960 年代の時間派という芸術集団に寄せられた「時間派のために」のテクスト(それ自体は美術テクストであるが、山腰氏によるとテクストにも応用可能)に即し、それを「制作の時間」と「鑑賞の時間」の二種に山腰氏は分類する。まず「黄よ、お前はなぜ」を取り上げつつ「鑑賞の時間」についての分析がなされた。この詩は、一方ではフランシスの挿絵付きの九枚のカード形式で、他方では『余白に書く』の中で挿絵なしの書物の形式で制作されている。両媒体における同一の詩に関して、山腰氏は改行位置のが異なっている点を指摘する。この差異は、跳ねる絵の具とテクストとの一致を試みたレイアウトの要求に由来するのではないかと山腰氏は述べる。挿絵の有無によって「余白」は変形し、テクストのレイアウトが操作されるのである。レイアウトだけでなく、テクストの意味もまた両媒体に内包されている「余白」に相関して揺らめく。「青の飛沫」という一句は、前者のテクスト(カード)で読む際はフランシスの挿絵(跳ねる絵の具とその周辺の「余白」)に対応し、後者のテクスト(書物)で読む際は先に触れたフランシスによって作られた表紙(アトリエの床=制作物の周辺としての「余白」)を読者に想起させるからである。このように、「余白」の変化によって、テクストから読み取れるものは全く異なるものになる。「黄よ、お前はなぜ」という同一の詩を巡ってなされていることは、コンテクストによる意味生成の変化の探究なのだ。
次いで、「制作の時間」の分析のために、瀧口修造の詩画集『《稲妻捕り》Elements :《稲妻捕り》とともに』が取り上げられた。この作品は、加納光於の連作《稲妻捕り》および「《稲妻捕り》Elements 」と呼応する形で書かれたものである。
「書かれたテクストよりも、書いた行為そのものを私はいくぶん詩と呼びたい気がするのだが」(瀧口修造「超現実主義と私の詩的体験」) と自身で述べたとおり、この詩画集で瀧口は完成した作品ではなく草稿を私たちに提示する。これによって、「書いた行為」の軌跡=制作のプロセスが表されるのである。いわゆる「四角形」の体裁になる通常のテクストと異なり、紙面のいたるところに「余白」を有する瀧口の草稿は、右上から左下へと直線的に続く従来の書き方ではなく、中央から外側へと広がっていくようにも見えるし、ページ上にアトランダムに書き記されているようにも見える。したがって、これらの草稿を前にすると「読む順序」を決定することが読者に要請されるのである。しかしその順序とは、一つの厳格な規則に落とし込むことが不可能なものだ。「制作の時間」というプロセスの提示は、先程「黄よ、お前はなぜ」で確認したのと同様に、複数の意味生成を必然的に可能にするのである。またそれは、「これもありえた」という可能性の下に行われる一つのプロセスの解体と再構築、言い換えるならば複数の時間の共存を可能にする。「余白」が考慮されるやいなや、テクストの意味やそこにありうる時間は、常に複数的なものへと開かれていくのである。
このような山腰氏の発表に対して、参加者からは「余白」ないし「時間性」について次のような質問が寄せられた。
「余白」とは「周縁的なもの」(あるいは「マージン」)として言い換え可能なのか。九枚のカードのうち一枚だけはテクストのみで構成されているが、その意図はどこにあるのか、また、挿絵が含まれているものとの差異が際立つため、そのコントラストは「余白」の産出に貢献しうるのか。マージナルものとして取り扱われる草稿と瀧口におけるアーカイヴへの態度の関係性。草稿のコンセプチュアル・アートとしての資質。「余白」を巡る山腰氏の発表は、そもそも「作品」とは何かを問い直すに至るまで、活発な議論を誘発した。
「時間性」については、マラルメ研究からアプローチできる可能性が示唆されたり、パウル・クレーの絵画および思想との類似と相違が指摘された。瀧口がクレーと違うところは、クレーが記憶の時間を扱っているのに対して、瀧口は実作(制作過程)=具体的な時間のみを扱っている点にある。クレーの日本での展覧会カタログの序文を執筆しているように、瀧口が彼に関心を持っていたことは疑いないように思われる。フランスに代表される西欧諸国と比べ、そもそも日本ではよほど一般的なものではない詩画集というジャンルに対して、クレーをはじめ、西欧の同時代作家たち思想を参照し対比していくことが瀧口独自の「時間性」を具体化していくために必要な作業になるだろう。
(報告者:伊藤琢麻)
【ワークショップ(読書会)】
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対象詩:
- 『黄よ。 おまえはなぜ』
- 『《稲妻捕り》Elements :《稲妻捕り》とともに』