Atelier/Poétique

フランス現代詩研究会

フランス現代詩研究会

トリスタン・ツァラの「精神活動としての詩」:「純粋詩」との比較を通じて

フランス現代詩研究会 2018 年 7 月例会

  • 日時:2018 年 7 月 20 日(日本時間 21-24 時/フランス時間 14-17 時)
  • 場所:東京/パリ(オンライン)

【研究発表】 「トリスタン・ツァラの「精神活動としての詩」:「純粋詩」との比較を通じて」

  • 発表者:伊藤琢麻(日本学術振興会特別研究員 DC)

要旨

「反芸術」的であった「ダダ」の創設者として知られる一方、トリスタン・ツァラは詩に関する理論的テクストをいくつか残している。その代表的なものが、1931 年に発表された「詩の状況に関する試論」である。彼は、その中で詩を二つの種類に、すなわち「表現手段の詩」と「精神活動としての詩」に分類する。この分類はユングの思想の影響下にあり、文明社会の科学的で理性的な「導かれる思考」に前者が、未開社会の連想的で非理性的な「導かれない思考」に後者が結び付けられている。詩を「表現手段」というカテゴリに分類することを誤りとし、小説とは外部的形式によってしか区別されない詩ではなく、「精神活動としての詩」を主張したのである。ところで、ツァラの言う「精神活動」とは何か。そしてその実践として、ツァラはどのような詩を残したのか。シュルレアリスム期以降のツァラの具体的な作品を読み解きつつ、これらの点について解説を与えた先行研究はほとんどない。そのため、結局のところツァラの「精神活動としての詩」をどのように読むことができるのか未だ明らかになっていないのが問題なのである。

そこで、彼の「精神活動としての詩」の分析に着手するために、本発表で私たちが注目したいのが、同試論の中でツァラが触れている「純粋詩」という概念である。この「純粋詩」とは 1925 年にアンリ・ブレモンがアカデミー・フランセーズの定期講演会で提示した概念である。「純粋詩」には絵画的特徴や思想、崇高な感情に先行して「筆舌に尽くしがたいもの」« l’ineffable » がある、とブレモンは言う。実は、先述した試論を展開していくとき、ツァラもまた「筆舌に尽くしがたいもの」« l’ineffable » という同じ語彙を数回使用しているのであるが、「純粋詩」のことは退けている。したがって、両者における « l’ineffable » を知り比較することで、「純粋詩」とは異なるものとしての「精神活動としての詩」が導き出されるのではないかと期待される。このようにして、ツァラの詩をこれから読解していくための初めの手がかりを発見することが本発表の目的である。

【ワークショップ(読書会)】

  • 対象詩:シュルレアリスム期終わり(1935 年)の詩集 La main passe より 2 篇
    • Dévidée
    • Limites du feu

参考 URL

対象テクスト
レジュメ・翻訳

報告

ダダイストで知られるトリスタン・ツァラの「ダダは何も意味しない」と、聖職者アンリ・ブレモンの「詩を読むために、常に意味を把握する必要などない」という言葉は、「意味」を手放すという点において奇妙な共通点を有している。発表者の伊藤琢麻氏は、この共通点を検討することから出発し、ツァラの「精神活動としての詩」とブレモンの「純粋詩」を鮮やかに対比してみせた。ツァラは「詩の状況に関する試論」(1931 年)の中で、「精神活動としての詩」が当時の純粋詩論争の議論とは区別されるべきものだと主張したが、ツァラが純粋詩をどのように理解し、どの点において区別していたかという具体的な説明はされていない。ツァラ研究においても、ブレモンの純粋詩と、ツァラの言う精神活動としての詩の違いは、明確にされてこなかった。ここで伊藤氏は、ブレモンが鍵語として用いていた「筆舌に尽くしがたいもの」(ineffable)をツァラも使用していたことに着目し、この語の両者の使用法の比較を通じて、純粋詩と精神活動としての詩の区別を行うことを試みた。ブレモンは、1925 年のアカデミー・フランセーズの講演会で、純粋詩においては、「生き生きとした描写」や、「思想」、「崇高な感覚」よりも先立って筆舌に尽くしがたいものがあると考え、この純粋無垢で神聖な「語りえなさ」こそが諸感覚を形作るのだと主張した。絶対的に何も表さず、意味を持たない詩句、それはまさしく「神秘」(mystère)そのものであり、この神秘を前に人は沈黙し、祈る他なくなる。このようなブレモンの純粋詩観に対して、ツァラは、そうした語りえなさに対する言葉の無力さを承知しながらも、その無力さを伝えることを選んだ。言い換えれば、ブレモンは詩における筆舌に尽くしがたいものについて語ることを排除したのに対し、ツァラはそれを諸々の感情や思考と分離させずに、ほとんど無媒介的に語ることで、その形跡を詩に刻印しようとしたのである。こうした格闘の一つの形跡こそが「精神活動」として表現されるものであり、結果それは表現手段としての言語の体裁をほとんど成していないものとなる。この形跡=フォルムの探求が、そのままツァラの詩形・文学ジャンルの問題、さらには語りえないものを語る「語り手」の精神の問題へと直結していくことになる。前者の問題は、質疑応答とその後のワークショップで交わされた、ツァラのタイポグラフィーに関する議論へと引き継がれた。

発表の最後に伊藤氏は、ツァラの「純粋詩」に対する見解を、同時代のシュルレアリストたちとの関係から考察しようと、エリュアールの『詩的明証』の一節を取り上げたが、時間の関係上、十分に掘り下げることはできなかった。もしこの見解が、シュルレアリスム全体で共有されていたものであるとするならば、ツァラの「精神活動としての詩」もまた、シュルレアリスムとの関わりで再検討する必要が生じてくるだろう。一つ例を挙げるならば、1928 年に出版されたルイ・アラゴンの『文体論』には、名前こそ出されないが明らかにブレモンの純粋詩に対する反論が書かれている。アラゴンは、「何も言わないために語る」というブレモンの言葉を引用した後、「それが詩人の特徴だったら最悪だ」と続け、「〔ブレモンらが言う〕沈黙も、自らの権利を主張することで、意味を持つようになった」と批判した。そして彼は火事の惨劇や情愛を語ることを例に出しながら、不純か純粋かの判断で詩人の言葉に沈黙が強いられてはならないとし、「人の心によぎるものはおのずと表現されることを望むのだ」(Ce qui traverse un homme cherche naturellement à s’exprimer)と反論した(もっとも、ブレモンが言いたかったのは「語る」ことを通して表れる「語りえない」ほどの神聖な一節があるということであり、詩人が何かを語ることそのものを禁止するようなことを主張していたわけではない)。アラゴンのこの言葉は、フロイトの「詩人とは、自らの無意識を語る勇気を持つ人物だ」という言葉を彷彿とさせ、なおかつ現代的な問いも含んでいるように思われるが、今はそのことは措くとして、こうしたアラゴンの立場がツァラのそれとどのように通じ合い、またどのように異なっていくのかという検証がなされれば、シュルレアリスム期におけるトリスタン・ツァラの輪郭がよりはっきりと浮かび上がってくるだろう。

(報告者:森田俊吾)


Citation :
伊藤琢麻「トリスタン・ツァラの「精神活動としての詩」:「純粋詩」との比較を通じて」、『フランス現代詩研究会』、フランス現代詩研究会、第2号、2018-07-20、URL:https://poetique.github.io/2018-07-20-tzara/